モモ ミヒャエル エンデ 書評レビュー口コミ




貧しいが、のほほんとした温かい生活を送っている村人たちのところに、効率こそ大事だとささやきながら、無駄なことをどんどんやめさせようとする灰色の男たち、時間ドロボウがやってくる。
おっとりしたモモが、そんな時間ドロボウから奪われた時間を取り返して村人の生活を元通りにするために立ち上がるといったストーリー。
70年代に書かれた本であるが、時間に追われる現代人と資本主義の行く末を暗示するかのような世界観が描かれている。本当に大切なもの、幸せってなんなのか、そもそも無駄なことってなんなのか、
立ち止まってじっくりとそういうことを考えるべきときに感じるものがある本。

しかし、ミヒャエル・エンデがすごいのはもう一段上のレベルの概念、『時間とは意識である』ということを子供に語りかけるような言葉で説明しているところだと思う。

時間の国に住むマイスター・ホラがモモに語った言葉では、こうなっている。

「人間はじぶんの時間をどうするかは、じぶんできめなくてはならないからだよ。・・・・・時計というのはね、人間ひとりひとりの胸のなかにあるものを、きわめて不完全ながらもまねてかたどったものなのだ。・・・・人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じ取らないようなときには、その時間はないもおなじだ。」

1・・2・・3・・という秒の単位は、あくまで物理的な計算を成り立たせるための原理原則として作られているもの。それを空間的に表現したものが時計である。
しかし、過去に起こったことを過去の記憶として整理し、今をとらえ、未来を想像することができるのは人間の意識がそのようになっているから。

逆に言えば、妄想の世界に生きている人、精神的に狂ってしまって、過去や現実、妄想の区別がつかない人には時間という概念が存在しないと言ってもいい。
実際、自分が体験として起こったことと、想像で考えたことって、意識の中では同じように存在しているはずだし、10年前の経験であっても鮮明なものは鮮明な記憶として存在しつづけ、1週間前の経験でも意識から消えているものは存在しないに等しいし、感じ方によっては10年前の経験よりも古い出来事に感じるかもしれない。

「時間とは意識だ」
という前提で『モモ』をもう一度振り返ってみると、

・効率的な時間のすごし方 = 効率的な意識の持ち方
・無駄な時間のすごし方 = 無駄な意識の持ち方
・タイムマネジメント = 意識・心マネジメント

というように言い換えることもできるのではないだろうか?

つまり、
食事時間を節約するためにファーストフードで10分で食事を終えることは、
一見すると時間を節約しているように思えるのだが、
その10分が心・意識に残らない10分ならば存在しないのと同じ。
(体にエネルギーが注がれている点では意味があるが、意識のレベルでは無意味。)
そういう時間のすごし方で30歳年を重ねたとしたら、
物理時間は節約できたかもしれないが、
意識のレベルでは何も残っていない。

しかし、食事に30分かけたとしても、記憶に残る食事を経験できたのであれば、それは意識を大事にできたということであり、つまりは時間を大事にしたということである。

意識があるからこそ、動物ではなく人間だといえるのではないか。だとすれば、心や意識を大事にして生きるって、もっとも人間らしく生きることの本質なのではないか、と思うのである。
経済活動、生命活動を行う上で忘れてはならないものだと思う。

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