一生を終えてのちに残るのは
会社員 野﨑 佳宏(神奈川県 50)
20歳のころ、三浦綾子さんの小説を夢中で読みました。
「続氷点」に「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、
われわれが与えたものである」という言葉が出てきます。当時はよく理解していませんでした。
お金がたまれば車を買い、家を買い、果てしないコレクション魂が人間の悲しい性ではないかと。
20代後半で父が、数年後に母が他界しました。苦労を重ねた両親の人生は何だったのか。
かわいそうに思えてきました。いずれ身内や友人もさがこの世から消え、
両親が人々の記憶からも消えていくことが。
30代後半になり、 あの言葉を思い手元に「集めた」もの出しました。
手元に集めたものは、自らの死とともに消えてなくなるでしょう。
でも、「与えた」ものはそうではないと考えるようになりました。
両親から受け取った有形無形の施しを、自らの肥やしにするだけでなく、たすきリレーのように次の世代に伝えていく。
これこそ、自分が生を受けた意味なのかもしれない。
自分のしがない人生は、何百万年と続く人類の営みのほんの一瞬で残したいものは何なのか。
考えながら子どもと接する日々です。
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